2017年09月18日

講演会

夏の終わりに講演会の依頼があり、地元のお医者さんと歌手の丸石さんらと出演させていただきました。
こういう機会はほとんどないのですが、いろいろと勉強させていただきました。
キーワードは「終活」。内容は「ありがとう」の感謝の言葉でつながりました。
以下、新聞記事の内容を転写します。http://www.kinan-newspaper.jp/?p=11296


田辺市本宮町の本宮行政局でこのほど「より良く生きるために〜終活のすすめ〜」と題し、田辺市本宮さくら診療所の山下成人所長(53)、東光院の市橋宗行住職(42)が講演を行った。主催は熊野健康の杜。熊野川町出身の丸石輝正さん(33)のライブもあり、約80人が来場した。

 終活とは人生の終わりを考えることで自分をみつめ、今をより良く自分らしく生きる活動。何かを始め、自分の考えや生き方を修正するにはエネルギーが必要だが、人生の終末期になれば、できることが限られる。自分らしい終活を考えてほしいと山下所長は述べ、書籍「死ぬ時に後悔すること25」から▽生前の意思を示さなかった▽仕事ばかりで趣味に時間を割かなかった▽神仏の教えを知らなかった▽愛する人にありがとうと伝えなかった、などの項目を挙げた。
 統計で日本人は平均寿命(84歳)・健康寿命(男性70・6歳、女性75・5歳)とも世界一。健康意識が高まり保健医療の貢献で寿命は延びたが、幸福度は155か国中51位。米国は平均寿命31位・健康寿命36位だが、幸福度は14位。世界から見ると日本は特殊で、子どもの時に幸福度が高く、高齢になると低いまま。健康と幸福を同等に考えていると、年をとって幸福度は下がる。米国では人生終盤に生き方・考え方を修正し、楽しく充実させようとするから幸福度が高まるという。
 山下所長は「健康や長寿は当然大切だが、それだけでは不十分。皆さんの幸せにとって何が大切か考えてほしい」と述べ、人生終盤に自分らしくどう生きたいか、問いかけた。最後に「私も終盤に近いので身近な人を大切にし、普段からありがとう、と少しでも言おうと思います」と語った。

■市橋住職講話
 市橋住職は始めに、熊野信仰の歴史を解説。本宮は小栗判官の説話などで「よみがえりの地」とされ、神仏習合の考えで熊野本宮大社の本地仏は、来世を救済する阿弥陀如来とされる。また、終活を行うのは「今」であることに言及。「一期一会という言葉もあり、今の瞬間にベストを尽くし、自分の担った役割を果たすことが終活につながる」と市橋住職は語った。
 続いて書籍「ブッダがせんせい」を元に、仏教の「六波羅蜜」についてわかりやすく解説。次の実践項目を挙げた。▽誰にでもやさしくする▽人を信じる▽うそをつかない▽よくばらない▽腹を立てない▽1日1回は「ありがとう」という気持ちを持つ。
 さらに、釈迦入滅前の説法「遺教経」の1節を紹介。「我は良医の病を知って薬を説くが如し。服すと服せざるとは医の咎(とが)に非ず」(私は良いお医者さんのようなもの。どんなに良い説法や薬を施しても、あなたが飲まなければ意味がない)。市橋住職は「色々な教えや良いこと、温かい言葉をいただいても、それを受け止めることができなければ、自分の徳に成り得ない。しっかり皆さんも受け止めていただきたい」と話し、熊野で幸せな生活が送れるよう願った。

■丸石さんライブ
 最後は丸石さんがライブを行い、『ルート42』を歌唱後、自身の幸福度について言及。今の段階では結構高いという。「自分の好きなことを好きなだけやらせてもらっているおかげ」また、「自分の好きな音楽を歌うことは心にも体にも良い」と語る。ライブでいろいろな所に行って、あらためて地元を振り返ると、本当に素敵な所だと思ったことも話した。
 続いて命をテーマにした新曲や、『ありがとう』などの曲を歌唱。「ありがとうの気持ちが薄れている時も、ライブごとに感謝の気持ちを歌に思い出させてもらったりしている。ありがとうって口に出して歌うことは大事だと、日々感じています」と話した。
posted by 市橋宗行 at 10:59| Comment(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月23日

ある方へ生き方の一考

生き方についての一考

 子供を産み、育ててゆく過程は、皆一様に不安と心配の連続である。しかし、親の生きざまを想うとき、代々受け継がれる人間観というのは皆同じでないにしろ、それぞれがその背中を追ってゆくものであろう。
 人としての正しい道徳観を持ちつつ、親も子もなぜにこの世に生まれてきたのかを見つめながらの生活であるが、皆がこの生きにくい俗世での生活を生き抜かなければならない業(カルマ)をそれぞれが背負っているのである。だから自業自得となり、すべての行いが回りまわって自分に返ってくるのが現世である。このことを悲観することなく、たとえ不完全な親であっても自分のDNAをもった自子を真心こめて育てるのである。

 誰も完璧な親はおらず、完璧な子供はいない。そんな不完全な世界が人間社会である。そのなかで約80年の人生修行を全うしてゆくためには、人のありがたみ、物へのありがたみ、自分を見守ってくれるすべてのものへの感謝を忘れないことが肝心である。それをできない者は必ず報いを受けることになることを知るべきである。
悪因悪果、善因善課、因果応報を理解し、人をそしることが自分のそしりとなることを知り、失敗を許す勇気と愛情を忘れることのないように努めなければならない。
 人は懺悔しながら生きながらえるものである。柔(やわ)な体と頭脳しかない我々であるが、それゆえに間違いは必定である。間違いは責めるのではなく、その間違いを促し、許して次の成功へと導くものである。また、自分を許してくれる者への感謝を忘れず、次の瞬間を生きる糧とすべきである。

 つらいときや不安な時は、必ずその原因がある。因を絶ってしまえば苦しさも不安も取り除かれる。人としての根本に迷うことなく、また囚われることなく、現世での自分の役割を果たしてゆきたいものだ。
 「中道(ちゅうどう)」を生きるというのは、物事の右と左の真ん中ではなく、いかに自分のバランスを取るかということ。現世での事象はその都度右や左に傾くものであるが、自分の大きな路を、道草食わずゆっくりと進んでゆけば良い。そうすれば必ず良心な道連れが、気づけばあなたのそばにいることだろう。
posted by 市橋宗行 at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々のつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月02日

本来の面目

先日寺報に掲載させていただいた記事です。 

○本来の面目
尼寺に育った私は、物心つくころには、自分が育った場所がいかに特殊な場所であったかが分かるようになってきた。
 「尼さん」=「あんじゅ(庵主)さん」とは、男のお坊さんとはまた違った生き様と、また周囲からの目があった。たぶんそれは宗教者としての武器でもあり、諸刃の剣であることは本人が十分知っているように思われた。
 ともあれ、その「あんじゅさん」と一緒にいるのは、幼少の私にとってなぜか楽しいひと時であり、だからと言って私も坊さんになりたいというわけでもなく、ただ一緒に過ごす時間が楽しかった。

 ある日の托鉢も、私にとっては遠足のようなものであり、修行というよりお米や野菜をいただく日であり、それがのちにお布施というものであることを知ったときには、僧侶として笠をかぶり鉢(黒いお椀)を持ってお金をいただく托鉢に違和感を持つようになった。
 つまりは生きながらえればいいのである。そのことに最低限の経済があれば自分自身は維持できる。固執することなく囚われることのない世界がお寺にはあるのだ。ただ昨今の日本は非常に恵まれすぎていて、本来の面目を見失っている方々が多い。それ自体は自分にとって直接的につらいものではないのだが、本人が気づいてないことを憂い思うのである。
 ある方が身内の葬儀について嘆いていた。喪主を譲り合って決まらないそうだ。
 長い人生を生きてこられた方を見送るとき、その儀式はお金にとらわれず見送ることもできるが、周りの目と自分の懐を気にすることがそれを妨げているのだと分かった。
「僕たちお坊さんはイベント屋さんじゃない、儀式を司っているのです。たとえいくらであっても何であってもお布施をいただくかぎり、喪主がこうしたいとお願いされればそうするのが僧侶の勤めです。どうか型に縛られない目で、本当のことを見失わないようにしなければいけません…」

私にとってお布施の始まりは幼少のころのお米になる。それが真実だと今でも思っている。家族を養うのはそれとは一線を画すのである。だからこそお布施をいただき儀式を行うことは仕事ではなく行事になるのである。
それぞれの檀家や信者のお布施がこの命をつなぎ、仏教者として儀式を営めることに「ありがたや」の気持ちを持ち続けられる。一生一度の人間に生まれた宿命を忘れず、現在の多忙な世の中に於いても本来の面目を忘れてはならないのである。
今一度、自分がどこにいるのか迷子になっていませんか。歩むべく道は隠されていて、ただ今は見えないだけなのではないだろうか。
posted by 市橋宗行 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | ぼんさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする