2016年12月23日

ある方へ生き方の一考

生き方についての一考

 子供を産み、育ててゆく過程は、皆一様に不安と心配の連続である。しかし、親の生きざまを想うとき、代々受け継がれる人間観というのは皆同じでないにしろ、それぞれがその背中を追ってゆくものであろう。
 人としての正しい道徳観を持ちつつ、親も子もなぜにこの世に生まれてきたのかを見つめながらの生活であるが、皆がこの生きにくい俗世での生活を生き抜かなければならない業(カルマ)をそれぞれが背負っているのである。だから自業自得となり、すべての行いが回りまわって自分に返ってくるのが現世である。このことを悲観することなく、たとえ不完全な親であっても自分のDNAをもった自子を真心こめて育てるのである。

 誰も完璧な親はおらず、完璧な子供はいない。そんな不完全な世界が人間社会である。そのなかで約80年の人生修行を全うしてゆくためには、人のありがたみ、物へのありがたみ、自分を見守ってくれるすべてのものへの感謝を忘れないことが肝心である。それをできない者は必ず報いを受けることになることを知るべきである。
悪因悪果、善因善課、因果応報を理解し、人をそしることが自分のそしりとなることを知り、失敗を許す勇気と愛情を忘れることのないように努めなければならない。
 人は懺悔しながら生きながらえるものである。柔(やわ)な体と頭脳しかない我々であるが、それゆえに間違いは必定である。間違いは責めるのではなく、その間違いを促し、許して次の成功へと導くものである。また、自分を許してくれる者への感謝を忘れず、次の瞬間を生きる糧とすべきである。

 つらいときや不安な時は、必ずその原因がある。因を絶ってしまえば苦しさも不安も取り除かれる。人としての根本に迷うことなく、また囚われることなく、現世での自分の役割を果たしてゆきたいものだ。
 「中道(ちゅうどう)」を生きるというのは、物事の右と左の真ん中ではなく、いかに自分のバランスを取るかということ。現世での事象はその都度右や左に傾くものであるが、自分の大きな路を、道草食わずゆっくりと進んでゆけば良い。そうすれば必ず良心な道連れが、気づけばあなたのそばにいることだろう。
posted by 市橋宗行 at 14:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々のつれづれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月02日

本来の面目

先日寺報に掲載させていただいた記事です。 

○本来の面目
尼寺に育った私は、物心つくころには、自分が育った場所がいかに特殊な場所であったかが分かるようになってきた。
 「尼さん」=「あんじゅ(庵主)さん」とは、男のお坊さんとはまた違った生き様と、また周囲からの目があった。たぶんそれは宗教者としての武器でもあり、諸刃の剣であることは本人が十分知っているように思われた。
 ともあれ、その「あんじゅさん」と一緒にいるのは、幼少の私にとってなぜか楽しいひと時であり、だからと言って私も坊さんになりたいというわけでもなく、ただ一緒に過ごす時間が楽しかった。

 ある日の托鉢も、私にとっては遠足のようなものであり、修行というよりお米や野菜をいただく日であり、それがのちにお布施というものであることを知ったときには、僧侶として笠をかぶり鉢(黒いお椀)を持ってお金をいただく托鉢に違和感を持つようになった。
 つまりは生きながらえればいいのである。そのことに最低限の経済があれば自分自身は維持できる。固執することなく囚われることのない世界がお寺にはあるのだ。ただ昨今の日本は非常に恵まれすぎていて、本来の面目を見失っている方々が多い。それ自体は自分にとって直接的につらいものではないのだが、本人が気づいてないことを憂い思うのである。
 ある方が身内の葬儀について嘆いていた。喪主を譲り合って決まらないそうだ。
 長い人生を生きてこられた方を見送るとき、その儀式はお金にとらわれず見送ることもできるが、周りの目と自分の懐を気にすることがそれを妨げているのだと分かった。
「僕たちお坊さんはイベント屋さんじゃない、儀式を司っているのです。たとえいくらであっても何であってもお布施をいただくかぎり、喪主がこうしたいとお願いされればそうするのが僧侶の勤めです。どうか型に縛られない目で、本当のことを見失わないようにしなければいけません…」

私にとってお布施の始まりは幼少のころのお米になる。それが真実だと今でも思っている。家族を養うのはそれとは一線を画すのである。だからこそお布施をいただき儀式を行うことは仕事ではなく行事になるのである。
それぞれの檀家や信者のお布施がこの命をつなぎ、仏教者として儀式を営めることに「ありがたや」の気持ちを持ち続けられる。一生一度の人間に生まれた宿命を忘れず、現在の多忙な世の中に於いても本来の面目を忘れてはならないのである。
今一度、自分がどこにいるのか迷子になっていませんか。歩むべく道は隠されていて、ただ今は見えないだけなのではないだろうか。
posted by 市橋宗行 at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | ぼんさん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月24日

振り回されているのは誰?

集団的自衛権、吉田証言、慰安婦、拉致等々、挙げればきりがないほど各メディアや団体が騒いでいる。その真意があろうが無かろうが、理解されようがされまいが、思想信条、報道の自由の名のもとに情報が飛び交っているように思えてならない。
しかしそれぞれに立ち止まって見てみると、根っ子の部分が抜け落ちていて、ただの表面だけの議論になっているように見える。

「集団的自衛権」=7月1日の閣議決定文書には集団的自衛権行使容認という文言は一言も書かれていない。そもそも集団的自衛権と個別的自衛権を分けた法的な根拠が存在しない。
「吉田証言」=故人の証言を歪曲。一般的な国語力があればわかるレベルだと思うが…。
「慰安婦」=日本政府の強制が証明されない以上、日本としては対応しかねるだろう。ちなみに河野談話本文には日本政府の強制性を示す文言は存在しない。
「拉致」=相手が何者か知る由もなく、政府による水面下での交渉に頼らざるを得ない。

以前のこのブログでも言ったように、日本の世の中はだいたい8割のサラリーマンと2割の経営者、そして全体の5分の権力層で成り立っている。
これを前提とした場合、あなたがメディア側ならどのような報道姿勢をとるだろうか?

以上のように考えると、最近のメディアのあり方が少し見えてくるのではないか。
私は、特に報道媒体については「ジャーナリズム」から「エンタテイメント」化しているようにしか見えていない。報道の自由は良いとしても彼らは利益追求の為に日々ネタつくりに明け暮れているのではないだろうか。
では本家のエンタテイメントはどうなのか?これもまたその場の作り込みにいそしんでいる。何も与えず、虚像をつくって消費を促し、不満の矛先を誤魔化しているのではないだろうか。

ではなぜそのようになるのか。答えは簡単である。それは9割5分の大衆には本当の情報を与える必要が無いからである。

本当の情報が手に入れば、極端かもしれないが例えば現状の香港のようになるのかもしれない。だからこそ、18歳の彼らや彼女らが指揮を執ってデモをしている香港が羨ましくも見える。
振り回されているのは誰?気付き、立ち上がらないといけないのは誰?
その答えと行動がなされない以上、日本の将来はもとより、地方の将来もないだろう。
posted by 市橋宗行 at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする