そんな時、普段は思い出さないような人のことを思い出す。
東京でのバーのお客さん。今はどこで何をしているかは知らないが、今でも強烈な印象がある方です。
サラリーをもらいながら会社役員でもない方で、私の知っている限りでは彼女の年収はその時の年齢からしてもケタ違いの収入があっただろうと推測される。もちろん仕事については一切妥協せず、その方の性格上いつもパーフェクトだったと思う。
お酒を飲んでいるときはほとんど仕事の話しはしないが、たまに聞いた仕事話しの中では、とある超一流メーカーの社長の講演原稿の依頼料の高額さを聞いた時は、世の中にはそんなお金の動きがあるのかと驚かされた。
仕事仲間とは絶対に酒場には行かず、気の通った友達としか行動はしないが、たまに同僚の愚痴を口にしていたときに思った。この方は、「できない」「わからない」という人の気持ちが「わからない」のだと。
はっきり言って、完璧すぎる彼女の仕事に周囲がついていけないのだ。段取り、ペース配分、内容と、どれをとってもそのサラリーに見合ったものであることは容易に推測できる。しかしながら、逆に周りがついてこれない理由も理解できず、ゆえに同僚とはプライベートで付き合いはしないのだろう。
人には、あまりの能力の高さゆえ、レベルの違いを批判してしまうこともあるだろう。ひとつ間違えば誰にでもその隙間は存在する。でも人間はいろんな能力や立場や思考などの集合体であって社会が存在している。昨今はツイッターやフェイスブックを代表するコンピューターネットワークの時代ではあるが、あまり個々に深入りせず、表面的にうまく付き合うのも世渡りのコツなのかもしれない。
タレントの芦田愛菜さんは小学校1年生だった昨年、年間760冊の本を読破したそうだ。今年の目標は年間1000冊だそうで、たしかに逸材としての能力の高さに感心する。
私はそんな能力の高い人たちが、それぞれに適材として活躍出来る世の中であることを願っている。ただ、その持ち合わせの能力を愚痴に向けてしまった場合、その愚痴もとことんレベルの高い愚痴であることも知ってしまった。
【日々のつれづれの最新記事】



