人間が自分らの都合で植えたのに、それぞれの野菜は勝手に育っていき、収穫させてくれる。とても不思議であり、有難くもあり、収穫という代え難い喜びをいつも感じる。
コロナウイルスの旋風はあっという間に世界を席巻してしまった。いま、とにかく本心で願うのは、この場面で地震などの災害がどうか来ないでほしいということ。
多分、皆が一様に、自分らが生きている間にこんなことが起こるなんてと思っていることだろう。けれど歴史は大なり小なり繰り返している。これまでもSARSやMARS、自然災害からテロまで、世界中でさまざまな理不尽な事象が起こっている。私は昨日誕生日を迎えたが、まだまだ生きているうちに信じられないことが起こることだろうし、逆に、自分自身が「生きている」ということを感じている。
ここ数年ブログに書けなかったことが山ほどあるが、過去のマイナスな事象をそのままにしてきたことはない。精神、経済、法律、裁判、行政、借金、介護、保険、税務等々、そして最後は生老病死に行き着く。私の経験上出来得ることで、人が助かればいいと思う。しかし今この現状では、誰しもが経験したことがないことと向き合わなくてはならない。
コロナに翻弄されて終わるのか、それとも次の一手を打つことができるのか。
人生の中でこれだけ試されることもそうは無い。さらに、この場面を乗り越えた次の場面をいかに描けるかも重要になってくる。外出自粛のなかで考えるのは、今後の世界の変化と自分たちの生き方である。コロナウイルスのせいで、今後人々のコスト感覚と時間のかけ方が全く変わったものになるだろう。田辺市も東京も場所は関係なく、世界中いろんなものが繋がっていることに嫌でも気付かされるのだ。
人とのつながり、売買や物流、そんなすべてがITやAIとともに一気に加速的に変化するだろう。そうしなければ人類が生きていけなくなるのだから当然のことである。それと同じくして人は土を耕しアナログな世界を生活に取り入れることになるだろう。やっとこの機会を転機に、地方の姿を見出されるようになり、食料自給率というキーワードも真剣に考えることになっていく。
物事の事象は背中合わせである。いまみんなが置かれている現実は、その背中合わせのバランスを調整するいい機会である。コロナが過ぎたあとのデジタルな世界で、アナログな要素とともに令和の滅法の世を泳いでいくことになる。そんな新たな海原に余計な錘(おもり)をつけた身では誰も飛び込みたくないだろう。
どうするか、どうしたいのか。もっと、もっと考えなくては、イメージしなくては…。
足の引っ張り合いに終始するようでは、自分自身の錘を下ろすことすらできないだろう。続きを読む